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広島高等裁判所 昭和54年(け)1号 決定 1982年12月25日

本籍 《省略》

広島刑務所呉刑務支所在監

請求人 後房市

明治四二年一月一〇日生

右請求人に対する殺人、死体遺棄、詐欺未遂被告事件の有罪の確定判決(広島高等裁判所松江支部昭和四六年一月二八日言渡。)に対する請求人の再審請求につき、昭和五四年三月二日広島高等裁判所松江支部がした再審請求棄却の決定に対して、請求人の弁護人から異議の申立があったので、当裁判所は次のとおり決定する。

主文

本件異議の申立を棄却する。

理由

本件異議の申立の趣旨及び理由は、弁護人大塚一男ほか一八名連名作成名義の異議申立書、弁護人大塚一男ほか一一名連名作成名義の異議申立補充書、異議申立補充書(二)記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。

これに対する当裁判所の判断は、次のとおりである。

一、原決定が刑事訴訟法四三五条六号の解釈、適用を誤り、最高裁判所昭和五〇年五月二〇日決定及び同裁判所同五一年一〇月一二日決定に違反した違法のものであるとの所論について

所論は要するに、確定判決は、被告人の自白がなく、また、請求人が犯人であることを直接証明する証拠がなく、情況証拠にのみ基く認定であるうえ、殺害に使用された凶器についても、「鍬、ガンヅメ又はこれに類似する鈍器」と極めて曖昧な認定をせざるを得ない脆弱なものであるから、原審において取調べられた各証拠(以下、新証拠という。)を確定判決を下した裁判所の審理中に取調べられた全証拠と綜合的に評価すれば、確定判決の事実認定に合理的疑いを抱かせることが明らかであるのに、原決定は、新証拠を個々に切り離して判断したのみで綜合評価をしていないから、最高裁判所の前記各決定の趣旨に副わず、刑事訴訟法四三五条六号の解釈、適用を誤ったものである、というものである。

しかし、原決定を通読すれば、原決定は新証拠の証拠価値を評価するについて、まず、新証拠がそれぞれ確定判決の事実認定のうちこれと関係する部分との関連において、確定判決が有罪の証拠として掲げた各証拠と対比検討したうえ、第四結論の項において、右新証拠を他の全証拠と綜合して検討したことを明確に説示しているのである。原決定には、所論の法令解釈、適用の誤りはない。

二、凶器に関する所論について

所論は要するに、原審で取調べた助川義寛作成の鑑定書、鑑定書補足説明書、意見書、同人の原審供述(以下、助川鑑定と総称する)、弁護士細見茂作成の報告書、鉄製火かき棒(以下、本件火かき棒という。)によれば、確定判決が有罪の証拠としている岡田吉郎作成の鑑定書二通の信用性は否定され、采信一の損傷はL字形の形状を有する火かき棒類似の鈍器によるものであることが明らかとなり、むしろ、本件火かき棒が凶器である蓋然性が強く、したがって、凶器を「鍬、ガンヅメ又はこれに類似する鈍器」とした確定判決には事実誤認の合理的疑いがあるのに、助川鑑定の一撃説には聴くべき点が多いとし、また、凶器としてみた場合火かき棒の方がガンヅメよりも采の頭蓋骨の損傷状況に適合するとしても、とまで認定しながら、ガンズメないしこれに類する鈍器によっても采の損傷を生ぜしめることが可能であり、本件火かき棒と本件殺人との関連性が明らかでないとして、右各証拠の明白性を否定した原決定は事実を誤認し、明白性の解釈を誤ったものであるというのである。

助川鑑定の要旨は、「確定判決の証拠である岡田吉郎の鑑定書(昭和三七年一二月二五日付)により采の損傷とされている(イ)右頬部の創、(ロ)右眼部の創、(ハ)鼻部及び上顎の創のうち、(イ)、(ロ)の各創及び鼻部の創は鈍器の一撃によって成傷されたものであり、上顎の創とされている部分は、采の死後における死体の損壊に過ぎない。右頬部、右眼部の創が一撃で成傷されたとすると、凶器は相当の重量と振り廻すことによって強力な作用を発揮できる鈍器であって、その打撃面は概略幅一・四センチメートルないし二・三センチメートル、長さ九・四センチメートルないし一三・二センチメートルで、損傷の部位、形状、作用した力の方向からL状の形状をもつものが考えられ、本件火かき棒は、形状、重量ともに、右損傷に適合して、凶器の可能性が極めて高いが、ガンヅメの場合にはその形状から被害者が立っていたとすれば、頭を強く前屈するか、後屈した状態で、ガンヅメの頭部の金具側面が当る場合に限られる。」というものである。これに対し、前記岡田吉郎の鑑定書二通の内容は、前記(イ)、(ロ)、(ハ)の各創傷は幅が約二・四センチメートルで長さが少くとも五センチメートル以上の打撃面を持つ鈍器によって、別個に三撃以上されたことにより生じたもので、右各創傷の亀裂の衝突の状況から右頬部の創が右眼部の創より前に作られたものと思われ、いずれの創もガンヅメで成傷可能であるというものであり、原審に提出された岡田吉郎作成の意見書、同人の検察官に対する供述調書、同人の原審供述は、基本的には右鑑定書の内容と同様であるが、鼻部と上顎部の創が一撃か、二撃かは判然としないこと、仮に右頬部と右眼部の創が一撃によって生じたものと仮定すれば、ガンヅメによっても成傷可能と思われるが、創の形成されている角度に矛盾が残ることは否定し難いこと及び鑑定書(昭和三七年一二月二五日付)添付の図1、2の骨折部位が同添付の写真七、と比照して一部誤りがあると付加するところである。ところで、前記鑑定書による多撃説の根拠は、岡田吉郎の前記意見書及び原審供述を参酌してみると、右頬部の創から生じた鼻裂に右眼部の創から生じた亀裂が衝突して終っていること、すなわち右眼部の創が右頬部の創より後に発生していること、右頬骨の骨折は上下方向の骨折であるが右眼部の骨折は右上から左下方向の骨折で延長線上にないこと、上顎部の創すなわち「右外切歯が折損し、右内切歯と右犬歯の歯槽突起の下端付近の骨折」は明らかに右頬部、右眼部の創とは別個の打撃によるものであることが主たるものであるところ、助川鑑定による一撃説の根拠は、右頬部の創と右眼部の創は逆L字状の一本の線上にあり、また、頭蓋底の亀裂をみると、骨折線の届いている方向が右前から左後方向への作用力を示していること、鼻部の創は頭蓋骨の亀裂とつながっていて右頬部、右眼部の一撃によって派生したものであること及び上顎部すなわち、歯牙、歯槽の骨折とされる部分は死体損壊とみて差支えないことが主たるものである。岡田鑑定書がその創傷から、凶器について直線状の打撃面をもつ鈍器を想定し、これによって、右頬部と右眼部の創が二回の打撃によると判断したこと、したがって、逆L字状の打撃面をもつ鈍器によれば右頬部と右眼部の創が延長線上になくても一回の打撃によって生ずる可能性は否定し難いこと、骨折線の交差の状態は、創傷の前後関係を明らかにするけれども、必ずしも打撃の回数を現わすものでないことは原審岡田供述も認めるところであるが、他方、助川鑑定も本件火かき棒が発見された後に、火かき棒の形状が采の創傷に適合するかどうかを想定してその作業が開始されたものであり、頭蓋底の亀裂の状況から打撃回数が判断し得るかどうかについて岡田原審供述は否定的であるうえ、上顎部すなわち歯牙の骨折及び歯槽の骨折が死後の死体損壊であるとするのは、死体の埋没期間などから無理であることが認められる。そして、岡田吉郎及び助川義寛の原審における各供述を作図された図面、提出された写真などを参照しながら検討してみても、相互に対立する事項について、相手方の見解を批判するもので、創傷の部位、形状、程度のみから、一撃か多撃かを科学的に一方を是とし、他方を否とする程に確定し難く、結局、各鑑定人が想定した凶器の打撃面の形状によって、その打撃回数について論点及びその根拠が異なるものではないかと思われる。もっとも、確定判決前の控訴審において、岡山大学の三上教授が一撃説を証言していることは所論指摘のとおりであるが、右は、血痕鑑定の尋問に際し、未だ凶器の形状について論じられる前に岡田鑑定書添付の写真をみて結論のみを供述したにとどまり、詳細な根拠付けをしたものでないから、助川鑑定の一撃説とはその趣を異にし、また、岡田鑑定書の添付図の誤りも、正確な写真も添付されていて鑑定書の判断過程及びその結論に影響を及ぼすものではなかったと認められる。そして、岡田吉郎は、采の死体発見直後から、采の頭部の損傷について軟部組織の付着している状態のときから晒骨の操作を加えて詳細な観察を行い、その結果を鑑定書にまとめたもので、その作業過程に特に誤りはないことが認められるのであって、岡田鑑定書二通及びそれに添付されている図面及び本件火かき棒などを資料とし、一撃説を採る助川鑑定が提出されたことによって、当初から打撃面が直線上の鈍器を想定してなされた岡田鑑定書の信用性がそれのみによって否定されるものではない。また、助川鑑定も、前にみたように、采の損傷のうち右頬部と右眼部の創がガンヅメの一撃によって生じる可能性を全く否定しているものではないのであって、采が打撃を受ける直前に本能的にこれを避けようとして不自然な姿勢をとることも考えられないではなく、これらの事情に徴し、かつ、助川鑑定において重要な資料となった本件火かき棒が後記のように、本件と関連があるとは到底認められないことをもあわせ考慮すれば、助川鑑定が確定判決前の控訴審の審理中に証拠として提出されたものとしてみても、それ故に、采の創傷がガンヅメによる打撃によって可能であるとした確定判決挙示の岡田吉郎作成の鑑定書二通の証拠価値は減殺されるものではないと認められる。

そこで、進んで、助川鑑定によって凶器としての蓋然性が極めて高いとされた本件火かき棒が、本件と関連する可能性があるかについて検討すると、本件火かき棒は、原決定も説示するとおり、昭和四九年九月一八日江津市内の野村忠雄方において、細見茂弁護士、助川義寛鑑定人ら立会いのもとに発見されたもので、発見に至る経過について、細見弁護士は当審において、昭和四七年一一月ころ、当時、大阪刑務所に在監中の情報提供者から、「采を殺したのは足立某であって凶器は火かき棒で殺害現場は死体発見場所と異ること、右火かき棒は殺害現場付近の民家(野村忠雄方)に投げ込んで隠した」との話を聞き、情報提供者の案内で野村方に行って入手した旨証言して、情報提供者が桐原(内藤)正司であることを否定しなかったところ、桐原正司の当審における証言は、同人が情報提供者であることを肯定したうえで、「自分が直接江津に行ったことはなく、細見弁護士に対しては、足立某から聞いた話を、あたかも自分がやったように話しただけであり、本件火かき棒についてはみたこともなく、これを運んだこともない。野村方については、足立某から聞いたものである」というのであって、一面において、自分が本件と全く関係ないとしながら、細見弁護士に対する情報提供の関係では、虚偽の事実を伝えたものでなく、足立某の経験した事実を伝えたとするのである。桐原正司の当審供述は、全体として、その供述自体曖昧で、かつ、矛盾する部分も多く、常に自己保身を心がけながら、なお、これまでの言動を取り繕うため意識的に供述していることがありありと窺われるうえ、原審及び当審に提出された同人のこれまでの言動、行状に関する各証拠に徴してみても、桐原は、その動機はともかくとして、本件事故に全く関与していないのに、自らの体験又は友人の体験などと称して、あたかも、本件の関係者の如くふるまったもので、その証言は前述の部分はもとより真犯人を知っているとの部分も含めて、明らかに虚偽の供述と断ぜざるを得ない。また、原審及び当審で検察官が提出した証拠により認められる野村方の家人の居住状況、塀の修理の状況などに徴すれば、本件火かき棒が昭和三七年一〇月ころから発見時まで、野村方に隠されていたとは到底認め難い。してみれば、本件火かき棒が本件殺人の凶器である可能性は全くなく、したがって、本件火かき棒が凶器である蓋然性が強い旨の助川鑑定の部分は採用し難い。当審で取調べた弁護人西嶋勝彦作成名義の検証調書を参酌しても、右結論を左右するものではない。

結局、助川鑑定、本件火かき棒を確定判決挙示の各証拠とあわせ考察してみても、未だ確定判決の凶器の認定について、誤認とする合理的な疑いを生じせしめるものでないから、原決定はその結論において正当であり、所論は採用し難い。

三、犯行日の誤認に関する所論のうち、確定判決において犯行日と認定した昭和三七年一〇月八日の後にも采が生存していたとの点について、

所論は要するに、原審で取調べた高山駿爾、高山春代の弁護人高野孝治に対する各供述調書、両名の原審各供述によれば、両名が昭和三七年一〇月九日に会った片足が不自由な男(以下、目撃人物という。)は采信一と認められるのに、目撃人物と采との基本的な特徴が合致しているのを無視し、顔の輪郭、服装、杖をついていたかどうかなどという派生的な事実が異ることをもって、采と目撃人物とが別人であると判断した原決定には誤認があるというのである(もっとも、高山駿爾、高山春代の前記各供述調書は、いずれも請求人にかかる本件被告事件が上告審に係属中に作成され、本件確定前に上告審宛ての事実取調請求書に添付されていたものであるが、上告審において右各供述調書を証拠調をしていないのであるから、新規性あるものとして取扱った原審の判断は相当である。)。

しかし、前記高山駿爾、高山春代の各供述調書、各供述に現われる目撃人物の像と、確定事件の控訴審までに取調べられた各証拠及び原審で取調べられた原決定第三、一、(二)、(8)挙示の各証拠によって認められる采の人物像とを比較対照し、未だ、同一人物とは認め難いとした原決定の認定判断は、すべて首肯し得るところであって、右高山両名の各供述調書、各供述を確定判決をした裁判所に提出されていた他の証拠と総合的に評価判断しても、采が昭和三七年一〇月八日以降も生存していたとの合理的疑いを生ぜしめるものではない。

すなわち、前記高山駿爾、高山春代の各供述調書、各供述によれば、高山春代が昭和三七年一〇月九日に高山駿爾が同日又は同年一〇月一五日ころに島根県邇摩郡温泉津町で会った目撃人物像は、(イ)(外観)五〇歳から六〇歳位の眼鏡をかけた大柄な片足義足の男で、顔はどちらかといえば角張り、髪のかたちは角刈又は二枚刈にしていて、服装は着物姿の方が多く、歩行するときには松葉杖又は杖をついていえ、(ロ)(経歴、職業、人柄)その人物は、高山駿爾又は高山春代らに、満州にいたことがあり、広島の方から江津にきて、江川で投網漁をするほか、山陽パルプの工場用地造成工事をしているなどと話していたが、大声でオーバーな話し振りで、強い性格の人だと思った、(ハ)(行状等)その人物は、たびたび温泉津の町にきて、温泉に入ったり、売笑婦のいる食堂に行って酒を飲んだりしていたし、最後に会った日も温泉津の祭の日であった、というものであり、他方、采の人物像は、(ニ)(外観)死亡当時五四歳で身長約一七〇センチメートルの眼鏡をかけた左足膝下が義足の男で、顔は丸顔で髪のかたちはオールバックで前額部がはげていて、服装は殆ど洋服で殊に、江津で和服を着用していた形跡はなく松葉杖又は杖を使用していない、(ホ)(経歴、職業、人柄)戦前、満州で働いていたが、戦後広島県安佐郡可部町に引揚げ、昭和三七年五月ころから江川で魚をとるために江津にきていたが、平素の話し振りはおだやかで、気性の荒さを思わすようなところはない、(ヘ)(行状等)采は、死亡当時金銭に窮していて、たびたび温泉津に行って温泉に入ったりする余裕はなかった、というものである。右二名の人物像を対比すると、所論のように、外観上、眼鏡をかけた大柄な片足義足の男であり、経歴、職業上、満州帰りで、広島から江津に魚をとるためにきていたという類似点はあるものの、原決定の説示するように、外観上も、歩行時に松葉杖又は杖を使用していたかどうか、服装、髪型に差異があるうえ、采の生前の人柄と目撃人物から感じた人柄にも類似点がなく、また、当時、采が経済上温泉津に行って物見遊山するほどの余裕がなかったことなどに徴すれば、両者の間には同一人物と認めることが困難な差異があるといわざるを得ない。当審で取調べた弁護人高野孝治作成の報告書(一)、(二)、録音テープ反訳(一)、(二)、弁護人西嶋勝彦作成名義の検証調書を参酌してみても、右認定を左右するものではない。

所論は相違点とされる顔の輪郭、杖の使用の有無、服装、髪型などは、類似している基本的な特徴に比して派生的な枝葉末節というべき事実であって、目撃後約一〇年以上を経過したことによる記憶違いなどを考慮すれば、采と目撃人物とは同一人物であるというのである。しかし、片足が義足という身体障害の人物をみた場合に、その人物が松葉杖又は杖を使用していたか否かは、義足に関連する重要な事柄であり、また、高山両名が、いずれも、当時理髪業に従事し、目撃人物の調髪をしたことがあることに徴すれば、その服装、髪型についての記憶は極めて鮮明で特徴的であるといわなければならず、決して、派生的、枝葉末節の事柄でない。

そして、高山両名が目撃した人物が、同年一〇月九日又は同月一五日以降消息を絶っていることなど、所論指摘の事実を考慮してみても、右判断を左右するものではない。

四、犯行日の誤認に関する所論のうち、確定判決が有罪の証拠としている野村静枝の検察官に対する供述調書(昭和三七年一二月一四日付)が信用性がないとの点について、

所論は要するに、原審で取調べた野村静枝の司法警察職員(三通)及び検察官(二通)に対する各供述調書によれば、野村静枝が昭和三七年一〇月八日午後五時ころ請求人と采と思われる人物が山陽パルプ江津工場木屑捨場付近に一緒にいることを目撃した旨の野村静枝の検察官に対する供述調書(同年一二月一四日付)に信用性がないことが明らかであり、確定判決の犯行日の認定に合理的な疑いが生じているのに、これを否定した原決定には誤認がある、というものである。

しかし、原審において取調べられた野村静枝の司法警察職員、検察官に対する各供述調書合計五通の内容は、原決定が第三「当裁判所の判断」二項1、2、4ないし6において要約するとおりであって、江津中学校の運動会(昭和三七年一〇月七日)に娘と一緒に木屑を拾いに行き、その翌日(同月八日)午後四時ごろ、一人で木屑を拾いに行ったところ、午後五時ころ、請求人と采と思われる義足の人に会ったというもので、確定判決が有罪の証拠としている同女の前記検察官に対する供述調書の信用性に合理的な疑いを差しはさむ事実は存しない。もっとも、右各供述調書中、司法警察職員に対する昭和三七年一二月七日付供述調書中には、同年一〇月八日に小川イシ、武田シズヨもきていた旨の供述記載があり、小川、武田の各尋問調書によれば、右両名が木屑を拾いに行ったのは同月七日午後であって、そのとき野村母子に会った旨供述しているところから、野村静枝が請求人と采をみたのが、同月七日ではないかとの疑いもあるが、武田及び小川が野村母子と会った旨述べ、他方、野村静枝が、運動会の日の翌日に一人で行ったときに右小川及び武田に会った旨供述している点を考えあわせると、小川、武田と会った日について思い違いをしているとみるのが自然である。また、司法警察員に対する昭和三八年一月八日付供述調書中には、請求人と采をみたのが一〇月七日であると検察官に述べたが、娘と話し合ってみた結果同月八日であると思う旨の供述記載があるが、原審で取調べた各供述調書中には、右供述に対応する検察官面前調書がなく、その意味するところは判然としないが、いずれにしても、前記確定判決の証拠である検察官に対する供述調書の信用性に影響するものではない。そして、確定判決前の一審における野村静枝の尋問調書(昭和三八年三月一一日付)をもあわせて考察すると、野村静枝の各供述調書の一部について、一〇月七日と同月八日を混同しているようにみられる供述の変遷は、原決定が説示するように、日時の経過にもとずき記憶が次第に曖昧になったに過ぎないものと認められるのである。そして、確定記録の他の証拠と右各供述とを対比検討してみても、原決定の説示するように、野村静枝の前記検察官に対する供述調書の信用性を損なうような矛盾は発見することができず、また、野村静枝が殊更に、不明確な記憶を捜査官の誘導等によって、一〇月八日の事柄であると虚偽の供述をしたとの事情も認められない。所論は採用できない。

五、殺害場所の誤認に関する所論について、

右所論は、異議申立書、異議申立補充書二通においては主張されていないが、再審請求書に再審の一事由として記載され、かつ、意見書においても、主張されているところで、要するに、確定判決が殺害場所と認定した采の死体埋没場所には、人一人を入れるに充分な竹かごがあったこと、采の死体及び着衣後背部には、死体を引摺ったと思われる擦り切れた綻びがあったこと、死体が藁ごもで包まれ、ビニール紐で縛られていたなど、殺害場所が死体発見場所でなく、死体を運搬したことを想定させる証拠が存在したうえ、当異議審において取調べられた証人細見茂、同桐原正司の各証言によれば、殺害現場が死体埋没地点から遠く離れた江川対岸であることが明らかにされたのであるから、確定判決の殺害場所は誤認であるというのである。

しかし、当審で取調べた桐原正司の証言のうち、同人が本件犯行にかかわりがあり、真犯人とされる人物から本件に関する凶器、殺害場所を聞いた旨の供述が全く措信できないこと、したがって、桐原からの情報を根源とする細見茂の供述もその限度において信用し難いことは前説示のとおりである。そして弁護人西嶋勝彦作成名義の検証調書も、また、右各供述に基くものである。してみれば、右各新証拠はいずれも明白性に欠け、所論は採るを得ない。

六、請求人が一貫して無実を主張している態度が確定判決に合理的で重大な疑いを生じさせるとの所論について、

請求人が本件事件について、当初から犯行を否定していることは所論のとおりであるが、右事実を考慮しても、それによって、確定判決の事実認定に合理的な疑いを生じせしめるものではない。所論は採用し難い。

七、以上説示したとおり、請求人が原審に提出した新証拠を当審で取調べた各証拠を加えて、関連する確定判決の事実認定に供された旧証拠と対比し、かつ、右新証拠とりわけ、助川鑑定、本件火かき棒、高山両名の各供述調書、原審各供述、野村静枝の司法警察職員、検察官に対する供述調書合計五通を、確定判決前の裁判所(控訴審)の審理に際し、証拠として提出されたものとして、有罪とした旧証拠と総合判断してみても、確定判決の事実認定に合理的な疑いを生じせしめるものではない。

なお、請求人の弁護人のうち、弁護人原田香留夫、同藤堂真二、同笹木和義は、検察官及び弁護人大塚一男外一八名作成名義の各意見書が提出された後においても、事実の取調べを求めているところであるが、当異議審としては、これ以上の事実取調べは必要でないと判断したので、これを行わないこととした。

よって、本件異議の申立はその理由がないから、刑事訴訟法四二八条三項、四二六条一項により、棄却することとして、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 荒木恒平 裁判官 竹重誠夫 裁判官 出嵜正清)

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